今年4月1日、外国人労働者の受け入れを拡大する「出入国管理法」が施行されました。政府は「移民」という表現を避けていますが、実質的には移民法の改正。日本が、移民の受け入れに大きく舵を切ったといえると思います。
photo/ from "Wakamatsu Fest 150 commemorative Festival Program" by American River Conservancy. Page 6.
移民国家といえばアメリカ。そのアメリカ本土に、明治維新の翌年、元会津藩の人々(写真上)が集団移住したーー私がこのことを知ったのは、『二世兵士 激戦の記録:日系アメリカ人の第二次大戦』(新潮新書/2012年)を書いていた時のことでした。当然、なんで会津藩なの? と、大いに疑問を抱きました。この理由については後述するとして、今月、会津の移住150年を記念する行事があったので、7年越しの想いを抱いて初めて彼らの移住地を訪ねました。
場所は、サンフランシスコから車で約3時間、カリフォルニア州都、サクラメントから約1時間のゴールドヒルという村。ここは、当時「若松コロニー」と、現在は一般に「若松ファーム」と呼ばれる。
若松コロニーの今。母屋や納屋など、かつての建物の一部が残る。
池もあり。現在の敷地総面積は272エーカーと広大。1969年、若松コロニー跡地はカリフォルニア州より史跡指定。
渡米後、19歳で亡くなった移民団のひとり、伊藤けい(通称おけい)の墓。コロニー内の丘の上にあり、会津の方角を向いている。レプリカ。実際の墓石は、母屋の地下に展示されている。
150周年イベントでは(6月6日〜9日)、地元劇団による若松コロニーを題材にした芝居や、学者や作家らの講演、会津訪米団実行委員会による寄贈記念碑の除幕式などが行われた。
《歴史:なぜ、会津の人々はアメリカを目指したのか?》
では、いったいなんだって会津がアメリカなのか?
話は、幕末に起きた内戦、戊辰戦争(1868〜69年)に遡ります。この戦争は、明治政府を樹立した新政府軍と、旧幕府勢力および東北や越後の諸藩同盟が戦ったもので、会津藩は旧幕府側に立ちました。戊辰戦争にあたり、会津藩は、元駐日プロイセン(現ドイツ)公使館書記官で貿易商のヨハン・ハインリヒ・シュネル(米名/ジョン・H・シェネル)から武器を買い取ります。このシュネルというオランダ・プロイセン人は、会津の女性と結婚しており、戊辰戦争時には会津藩の軍事顧問といった立場に就きました。
左の人物をシュネルと地元では考えているようだが、違うのでは? 日本人ではないかと。シュネルを描いた風刺画が「JICA横浜 海外移住資料館」にあるかもと聞いたので、いずれ日本に行った時に調べるつもりです。photo/ from "Wakamatsu Fest 150 commemorative Festival Program" by American River Conservancy. Page 7.
歴史小説、『幻のカリフォルニア若松領:初移民おけいの物語』(五明洋/青心社/1997年)では、この写真の人物をシュネルとしている。著者は、ロサンゼルスの郷土史家。小説なので事実に忠実とはいえないながら、当時の米新聞記事や写真、ホテル住所録など豊富な資料を掲載。
しかし、会津を含む旧幕軍は、戊辰戦争に敗れてしまいます。藩は窮地に立たされますが、そんな中、シュネルは、「アメリカに移住し、茶と絹を製造、販売。いずれはカリフォルニアに会津若松王国を」と、藩に提案します。いきなりグローバルな、どえらい計画ですね。ところが、やや無謀とも思えるこの計画に藩は資金援助などをします。逆にいえば、新政府に睨まれてそれほど追いつめられていたのでしょう。
そうして、1869年、シェネル率いる会津の人々数十名が、先発隊と後発隊に分かれて渡米。サクラメントの奥地、エルドラド郡のゴールドヒル村に移住したというわけです。内戦翌年(明治2年)の行動ですから驚くべき速攻でした。
日本からはそれ以前に、中浜(ジョン)万次郎や浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)が米本土に住んでいますが、彼らの場合、海洋での遭難がもたらした移住で、計画されたものではありませんでした。また、他に高橋是清他もサンフランシスコに暮らしましたが、留学生であり移民ではありません。したがって、会津の人々こそは、”明確な意思”のもと、アメリカ本土に移住した最初の日本人グループといえます(*1)。
1870年のアメリカ国勢調査記録。会津の人々が移住してから2年後。彼らと思われる日本人名が記されている。母屋の展示物より。
《で、若松コロニーは成功したのか?》
会津一行はゴールドヒルに根を下ろすと、茶と絹を生産する「若松絹茶植民団/The Wakamatsu Tea & Silk Colony」を設立。日本から搬入した茶や桑の木の栽培を始めました。当初は、地元紙で紹介されたり、サンフランシスコやサクラメントの見本市に商品目録やサンプルを出展するなど好調でした。
アメリカ人画家、ジョージ・マティスが描いた好調だった頃の若松コロニー。左の絵は、現存する母屋と一致する。母屋の展示物より。
しかし、早くも翌年には水不足や資金不足で行きづまってしまいます。金策で日本に向かったシェネルは、その後、行方不明に。また、コロニーに残った人々は困窮をきわめ、ある者は、コロニー後継者(アメリカ人)の作男頭やメイド(お墓のおけいがそう)に、多くの者はカリフォルニア各地に散り、さらに一部の者は、後年、使節団として渡米した岩倉具視一行(かつての敵ですね)を頼って帰国しました。こうして若松コロニーは、約2年という短命のうちに崩壊したのです。あの時代に、遠いアメリカに根を下ろすなる大志を抱いたものの、夢破れた人々の無念が偲ばれます。
《その後の若松コロニーと現在》
若松コロニーは、その後長い間、忘れられた存在でした。しかし、20世紀初頭にアメリカの日系新聞が「おけいの墓」を紹介すると、日系アメリカ人の間で一時は「おけいの墓詣で」が盛んに行われたといいます。
そして2010年、地元の非営利団体「アメリカン・リバー保存協会(American River Conservancy)」が、元若松コロニーの土地を買い取り、現在では保存、普及活動を行っています(ガイドツアーやワークショップなどの情報は↓。毎日開門しているわけではないので要注意)。
Events Archive - American River Conservancy
《金の発見でブームタウンに》
ところで、桑や茶などの作物が育たなかった原因のひとつに、土壌汚染説があります。というのも、若松コロニーから3.5キロ、車でほんの5分の地にコロマという集落があり、こここそが、1848年に金が発見されたゴールドラッシュの震源地だったからです。金を目指して、全米といわず中国、南米からも人々が殺到。土地を掘って掘って掘り起こしたため、川の流れが変わるほどの自然破壊がなされました。
会津の人々が移住したのは、金発見から20年後。ゴールドバブルは過ぎ去っていましたが、若松コロニーの水源が金属で汚染され、その水を利用した作物も枯れてしまったというのが土壌汚染説です。
1848年に金が発見された地は、「マーシャル・ゴールド・ディスカバリー州立公園」として保存されている。若松コロニーから車で5分。
《にしても、いったいなんだってカリフォルニアであり、ゴールドヒルだったのか?》
150周年イベントには、日本からも3名の学者が渡米、講演されたのですが、これが大変興味深かった! この方々の研究は、「日本人移住史とセンサス史のリンケージ:1860年-1870年」(菅美弥子)や、「アメリカの新聞報道が語るワカマツコロニー」(小澤智子)の論文にまとめられています↓。
「JICA横浜 海外移住資料館 研究紀要12 2017年度」
論文には、会津の人々が、なぜ、アメリカの中でもカリフォルニア、しかもゴールドヒルを選んだかも記されています。どうやら、シュネルと横浜居留地で交流していた人物に、カリフォルニア出身のユージン・ヴァン・リード駐日ハワイ王国総領事がいて、彼が導いたようです。ちなみに、リードは、明治元年、ハワイに日本人労働者、いわゆる「元年者」を送った人物です。
また、これは私の推論ですが、ゴールドヒル付近にドイツ系コミュニティーがあり、ドイツ出身のシュネルは、彼らとコンタクトしていたのかもしれません。というのも、ゴールドラッシュの土地を所有していたのが、ジョン・サッターというドイツ系アメリカ移民だったからです。普仏戦争(1870-71年)終戦時には、ちかくのサクラメントでドイツ軍の勝利を祝うドイツ系移民の行進も行われた記録がありますし、この辺りにはそれなりの規模のドイツ系コミュニティーがあったように思われるのです。
《その後の日系人とヘイト運動》
若松コロニー後、アメリカ本土への日本人移民はあまり増えませんでした。それが急増したのは1910年代からです。そして、その頃から次第に日系人排斥の動きが見え始め、日米開戦後には、日系アメリカ人約12万人が収容されるという悲劇にいたります。これに関しては、1988年代にアメリカ大統領(ドナルド・レーガン)が正式に謝罪していますが、保守化する昨今のアメリカでは、「✖️⚪️人を、戦中の日系人のように収容してしまえ!」といった差別的な声も聞かれるようになりました。本年、移民に門戸を開いた日本では、今後5年間で最大約34万5000人の受け入れを見込んでいるとか。個人的には、こうした人々に対し「アメリカの過ちを繰り返すまい」と、自分に語りかける毎日です。
The Wakamatsu Tea & Silk Colony Farm/ The American River Conservancy
address: 941 Cold Springs Road, Placeville, CA95613
phone: 530-621-1224
*1/菅美弥氏は、この前年、日本人の労働移民グループがサンフランシスコに上陸した可能性を指摘。ただし、現時点ではあくまで可能性。参考文献/「日本人移住史とセンサス史のリンケージ:1860年-1870年」(前出)。なお、『がんばってーー日系米人革命家60年の奇跡』(カール・ヨネダ著、田中美智子訳、大月書店)には、以下の文章も。「そこ(注・コロラド州デンバー)では、中国人の鉄道労働請負人が一八六〇年代に日本人売春婦をたくさん連れてきた……この売春婦たちが、実はアメリカ本土での最初の日本人”契約”労働者だった」。